もうひとつの柏6:すべては谷津田からはじまった

柏マニアNo.
10
杉野
すぎの
光明
みつあき

すぎの梨園

プロフィール詳細

10月上旬、谷津田(やつだ)に最後まで残されていた稲も刈り取りが済んだようです。
手賀沼に流れ込む川や水路を上流にたどると、細長い低地が台地の間に枝状に入り込んでいます。その谷にある水田は「谷津田」と呼ばれます。谷頭部や台地の縁には湧き水があって水田を潤し、手賀沼の水源になってきました。この谷津は太古の昔に海底であった下総台地が隆起と浸食を繰り返して現在の形になり、千葉県北部の特徴的な地形といわれています。

長い間、谷津田は水害や干ばつの少ない安定した稲作の場でした。適度な湿気のある谷津田のコメは美味しいとまで言われました。近年、稲作機械が導入され作業の効率が求められると、狭い圃場や湿地といった性格が欠点となって耕作放棄されたりゴミで埋め立てられたり、あるいは市街地として開発されてきました。谷津田を取り囲む斜面林も荒れ果て、清水が流れメダカが泳いでいた小川は家庭雑排水の流れ込む下水路になってしまいました。

ここに1998年に発行された『谷津田 小宇宙』(中野耕志、家の光協会)という1冊の写真集があります。おもに柏市東部の布瀬地区の谷津田で撮影されたものと思われます。

1998年発行の写真集『谷津田 小宇宙』



谷津田はなにも変わらないようですが
『谷津田 小宇宙』の表紙と同じと思われる谷津田の20年後



谷津田が時代の波に飲み込まれていくなかで多様な生物を育む貴重な空間として保存の問題を提起したい、せめて現状を写真に撮り残しておきたいという思いが伝わってくる写真集です。
地域の都市化が進むと農村域ほど多様な生き物が生きるのによい条件が残っていると思いがちですが、実は農村域の多くは農業生産をめざした土地改良や圃場整備によって適さない環境が多くなっています。その中で台地、斜面、低地の複雑な地形に畑、樹林地、水田、それに集落と様々に利用されてきた谷津田とその周辺は多様な空間があって、まさにコンパクトにまとまった生物の生息空間(ビオトープ)に適しているといえます。

谷津田は自然環境の視点からの保全の声が多く聞かれますが、かつては人々のにぎやかな声が響いていました。
農作業だけでなく、何より一年中子供たちの遊び場でした。春早い陽だまりの畔道ではヨモギを摘むお年寄りのまわりで孫たちが走り回っていました。田んぼの水たまりにカエルの卵を見つければ春の近いことを知り、夏のカシやシイの木陰には涼しい風が吹き抜けていました。カブトムシがいたのは斜面のクヌギ林。野鳥を仕掛けて捕まえようとしたのは水の湧いているような藪の中。冬には日陰の田んぼに厚い氷が張って即席のスケート場になり、雪でも降れば坂道でソリ遊びもしました。農作業をする大人たちの姿を見たり自然の不思議さを感じたりしながら、谷津田は子ども達が様々なことを経験したり学ぶ場でもありました。

かつて子供たちの声が響いた谷津田添いの道(2020年10月)



わが家の裏の坂を下りていくと谷津田になっていて、その奥に平安時代に開創されたと伝えられる弘誓院(ぐぜいいん)という真言宗の古刹があります。周りを斜面林に囲まれ、近世初期に建てられたという本堂、石段の上の鐘楼、二本の大きなイチョウの樹、池に浮かんだ弁財天などが配置された境内は、いかにもパワースポット的な雰囲気を漂わせています。

谷津田谷頭部にたたずむ柳戸・弘誓院(2013年2月)
左に本堂、右の丘の上に鐘楼がみえます。
中央の傾いたスギの大木には何度も落雷してるとか。
天空と大地がもっとも近い場所?まさにパワースポット。



今は静寂なこの境内もかつては【柳戸の観音様】と親しまれ、祈祷寺としてたいへんな賑わいを見せていたそうです。
とくに8月10日には【十日市】という市がたち、お盆用品をはじめ日用品全般を求めて3里四方の村々から人が集まっていました。境内には明和2年(1765年)と記された商人講の寄進による手水鉢が残されています。地元の柳戸集落に伝わる「おけや」「はなや」「たびや」「げたや」「ちゃや」などの屋号は、観音様の参詣客や十日市の客を相手にした店の名残りだといわれています。昭和15年ごろを最後に十日市は開かれなくなったそうですが、明治生まれの祖母が子供のころはお盆に新調する下駄や服を買ってもらうのが待ち遠しかったと話していました。

古くは弘誓院近くまで手賀沼からの入り江があって、「柳の渡し」と呼ばれる船着き場があったそうです。その「柳渡」が「柳戸」となったといわれます。柳戸という地名は13世紀の資料には登場し、少なくとも中世から続く集落の一つといえます。柳戸集落は谷頭部の低地から台地上にかけての斜面に広がり、弘誓院の前は「観音谷」と呼ばれる谷津田になっています。先々代の住職鈴木英光氏から弘誓院近くには村人の飲料水や谷津田の水源となっていた二つの井戸があったと伺ったことがあります。弘誓院からみて西側、朝日の当たる方を「朝日井戸」、夕日の当たる方を「夕日井戸」と呼んでいたそうです。そして“朝日差し 夕日輝き 樹のもとに うるし千倍 きい千倍”という歌もあったとか。

手賀沼周辺には柳戸以外にも大井船戸、根戸、我孫子船戸、岡発戸、古戸など「戸」のつく地名が多くみられ、また、弘誓院以外にも大井福満寺、布瀬宝寿院、泉吉祥院など天台宗や真言宗の古くからの宗派の寺院が谷津の谷頭部に立地しています。もしかしたら、当時、水運でこの地に入った布教僧が生活と農業の中心であった谷頭部の湧水の近くに布教所を構え、後年、寺院になったのではないか。そうなると、この地域の地形と文化、歴史が交差するところが谷津田だった。そう、すべては谷津田から始まった……あくまでも仮説です。

身近で等身大の農地であった谷津田は、長い間、人々の暮らしと生業を支えてきました。時には文化を育み、多様な生き物たちとの共生の場を提供してきました。コメ増産が叫ばれていた時代には谷の奥深くまで基盤改良されました。それが今、大変なお荷物扱いされています。谷津田が地域の原風景の一つにしてしまっていいのかと数十年も前から問題提起されていますが、なんの解決策も見いだせない状態が続いています。
企業等が農地を取得できるようになった以降は、事態の変化が早まり一層厳しくなっています。すぐにでも地域の知恵を結集してこれからの谷津田の新しい価値を見い出さなければなりません。もし今、新しい価値を見つけられなければ、その価値が見つかるまで現状を凍結する方策を検討してはどうでしょうか。

たとえば、活用保全方策の見えない谷津田は地目を山林にします。そして周辺の斜面林を含めて手賀沼の水源かん養保安林や保健保安林に指定します。保安林は特定の公益目的のために立木の伐採や土地の形質の変更等が規制されます。その制限の代償として固定資産税の免除や相続税・贈与税の評価控除、補助金支給などのメリットが受けられます。売買は可能です。保健保安林は、生活環境保全機能および保健休養機能の高い森林として指定されるものです。
たしかに大胆な提案かもしれません。地権者の意向や行政手続きなど実現までの障害は険しいかもしれません。しかし、行政制度は人が作ったもの。多くの人の気持ちがまとまれば、どこかに突破する道があると思います。谷津田の保安林指定により、なにより手賀沼と共にある柏のライフスタイルの実現に一歩近づけるのではありませんか。

清水が流れる春早い谷津の水路 (2014年3月)




柳戸弘誓院下の観音谷から手賀沼方面を望む(2020年10月)


この記事を書いた人

すぎの梨園

杉野
すぎの
光明
みつあき
プロフィール

父の代から沼南地区で梨の栽培を始める。1973年から本格的に梨栽培を手掛け、1988年に就農。2013年には梨栽培を中心に農産物やジャム類・ドレッシングなど加工品も開発。梨シーズン中は自家直売所のほか、道の駅しょうなん農産物直売所でも販売。


また、休耕地を有効活用したひまわり栽培に取り組み、食の地産地消を目指してひまわり油を販売中。

参考サイト

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