2022-02-12
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何度かうかがって、すっかり手賀地区に魅了されました!とても素敵なところですよね。楽しみです!冒頭の写真は(提供:柏市教育委員会 昭和50年代撮影)です。
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1. はじめに・観音谷津にたたずむ子育ての名刹【真言宗豊山派 弘誓院】
手賀沼の南岸には谷津と呼ばれる谷が無数に刻まれており、水利に恵まれた米作りの適地として、早くから村々が営まれてきました。そこには豊かな自然の中に、由緒ある寺院が点在しています。手賀の丘公園の西側に切れ込む谷津は「観音谷津」と呼ばれ、この谷津を遡ると、今回の目的である弘誓院が見えてきます。イチョウなどの大木に囲まれ、静寂の中にたたずむ風格ある本堂や境内の景観は、大和の寺院にも似た雰囲気を醸し出していています。
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2.弘誓院の歩み
柳戸村は中世相馬文書にも登場する古村で、かつては上柳戸村と下柳戸村に分かれていました。弘誓院のある上柳戸村は元徳3年(1331)9月、相馬家の一族である岡田胤康から、泉村や金山村などとともに、嫡子胤家に譲られたことが記録されています。弘誓院には創建当時の古文書は残っていませんが、天明5年(1785)4月の梵鐘鋳造の寄金録に、次のような記載があります。
「大同年中(806~10)に行基菩薩が伽藍を建立し、自ら彫ったのが本尊、聖観音像である。その後、高城下野守胤則・原兵部少輔胤定・相馬弥七郎胤光などの豪族が大檀家となって什宝類を奉納し、仁王門や鐘楼を造営して大いに繁栄したが、重なる火災で諸堂すべてを焼失してしまった。この時、聖観音は飛行して大杉に避難し焼失を免れた。」高城・原・相馬とは、中世この辺りを支配した豪族で、戦国末期の天正年間に火災に遭ったことも事実のようです。
昔から毎年8月10日に開かれる朝市も有名でした。当日はたくさんの店が並び、ご先祖様への花や線香・ロウソク・提灯など、お盆の用品を買い揃えるために、近郷近在の人々が大勢集まりました。
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2)-1.御本尊「聖観音」
お寺のご本尊は、寺伝によると行基作と伝えられる聖観音菩薩で、60年に一度しか拝観することはできない秘仏です。観音の信仰はインドから伝来し、「さまざまに姿を変えて人々を救い、一心にその名を唱えればあらゆる危難を逃れ、福徳を得ることができる」とされる仏様。十一面・千手・馬頭など、数ある変化観音の基本になるのが聖観音です。『利根川図志』には「布川に居住していた元常陸小野崎城主、新井照信(天正10年(1582)歿)の守り本尊である。」との記事も見られ、前述のように戦国時代の火災では、自ら飛び出して杉の大木に避難するという伝説を残すなど、由緒ある仏様です。
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柏市教育委員会の調査によれば、像の高さは79.5cm、ヒノキ材製で鎌倉時代の作として、千葉県有形文化財に指定されています。木像後頭部には3行の銘があり、1行目の「南無観音菩薩」以外は、読めていませんが、解読できれば弘誓院の歴史がより明らかになっていくことでしょう。
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2)-2.歴史を彩る文化財【法華経の版木】
昭和38年、本堂の屋根修理の際に発見された版木です。法華経の古版木として注目されましたが、その後の旧沼南町の調査により、開経(無量義経)と結経(観普賢菩薩行法経)を含む法華三部経であることが判明しました。調査を担当した椎名宏雄先生によれば、「三部経は天台宗や日蓮宗の根本経典とされるが、版木として残されているものは少なく、弘誓院のものは大変貴重。」とのことです。長い年月により92枚中41枚が失われ、残っているのは51枚で、残念ながら願主や年号は腐朽していて判読できません。
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しかし、版経の彫刻師は一日1,000字が限界とされる中、多額の経費をかけた出版事業がこの弘誓院で実施されたのです。中世の頃、どんな豪族によって営まれたのか、この寺の謎の一つとなっています。
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2.大手町から出土した梵鐘
昭和45年東京大手町の工事現場から、古い小さな梵鐘が出土しました。鐘の銘文には鋳造の理由に続いて、「文正2年(1467)大檀那の平胤弘が妙如禅定尼の菩提供養のために、下総国相馬郡泉郷柳渡の福満寺に奉納」と刻まれていたのです。鐘には九曜星も彫られており、平胤弘はこれを家紋としていた相馬一族と考えられます。なぜ、大手町から出土したのでしょうか、想像を膨らませてみたいと思います。当時、戦いでの略奪は当たり前でした。金属製の鐘は戦利品として持ち去られることは多かったのです。文明10年(1478)武蔵の太田道灌は、千葉氏を攻めるため下総に侵入し、柏周辺でも激しい戦が記録されています。酒井根合戦です。道灌軍が帰りの船で、何らかの理由で、当時海であった大手町付近に、福満寺の鐘を落としてしまったのかもしれません。
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(提供:柏市教育委員会)
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柏市には福満寺という寺号を持つ寺は弘誓院福満寺のほかに、大井地区の教永山福満寺が知られています。いずれも中世に繫栄し、相馬氏との関連が深い古刹でしたので、どちらかに特定はされませんでした。柏市郷土資料展示室には、数奇な運命をたどったこの鐘のレプリカが展示されています。
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住所 柏市大島田48-1(柏市沼南庁舎内)
TEL 04-7191-1450(平日の休室日のお問合せ先は文化課04-7191-7414)
開室時間 午前9時30分~午後5時
休室日 月曜日(祝日、振替休日は開室)、展示替期間、年末年始(12月28日~1月4日) (補足) 展示替えのため臨時に休館することがあります。
※令和3年10月11日(月曜日)~11月1日(月曜日)、令和4年2月28日(月曜日)~3月14日(月曜日)は、展示替えのため休室いたします。
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3)-1 子育て信仰の篤い寺【間引きの絵馬】
本堂の天井には、多くの絵馬や奉納額が掲げられていますが、この中に一枚の珍しい絵馬があります。右下には、生まれたばかりの赤子の口と尻を押さえて、殺そうとする女の姿が、中央上には同じ構図で恐ろしい形相の鬼に描かれています。背面にはびっしりと墨書きがあり、「子孫繁昌手引き草」と表題が読めます。内容は、「田舎では所によって、経済的な負担から、赤子を子返しと称して、殺害する習慣があって、大変に痛ましい。虎狼牛馬でも子を殺すことはない。そんなことをすれば必ず子供の怨霊に祟られ、家は断絶し、死後は地獄の責め苦に遭うであろう。」と、芋や雉・犬など愛情豊かな動植物を例に挙げて、間引きを戒めています。弘化4年(1847)、柳戸村と近郷の村人14人が、西国秩父坂東の百観音参拝の記念に、秩父菊水寺の絵馬を参考に奉納したものです。こうしたことが日常的に行われていたのでしょうか。
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近辺で「間引きの絵馬」が奉納されているのは弘誓院のほか、布川の徳満寺(茨城県利根町)が知られています。「日本民俗学の父」と称される柳田国男は少年期をここで過ごしますが、後年著した「故郷七十年」のなかで、徳満寺の絵馬を見て受けた激しい衝撃が、民俗学を志す一つの契機になったと述べています。「あの地方はひどい飢饉に襲われた所である。食料が欠乏した場合の調整は、死以外にない。」と天明の飢饉などによる貧しさから、この辺りでは間引きが一般化していたと、結論付けています。
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理由の一つめは両村の経済的な繁栄です。布川は利根川水運の河岸場として、米や魚を満載した高瀬舟の往来で栄えました。小林一茶がたびたび訪れて逗留し、赤松宗旦が『利根川図志』を著したのも、河岸の財力のおかげです。弘誓院のある柳戸村はどうでしょうか。手賀沼は、度々洪水に見舞われ被害を受けましたが、その反面水産資源も豊富でした。鴨やウナギは江戸では、手賀沼ブランドとして高い評価を受けており、野菜などの行商で現金収入を得ることもできました。間引き絵馬の隣掲げられている参拝額は、元禄11年(1698)百観音巡礼に出かけた、近郷の村人31人による奉納です。320年以上前から大勢で遊山を兼ねた巡礼が行われており、経済的な理由から赤子を頻繁に殺す必要は低かったと思われます。2つ目は共に地蔵菩薩が祀られ、子育て信仰が厚い寺だった点です。
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3)-2【地蔵菩薩像】
地蔵はお釈迦さまが没し、弥勒が出生するまでの間、人々を救済するように仏に委ねられた菩薩です。「賽の河原地蔵和讃」では、幼な子は親より先に死ぬと、親孝行もせず親を悲しませることから三途の川を渡れず、賽の河原で石積みを永遠に続けなければなりません。さらに、親の名を泣きながら呼ぶ子どもたちに、地獄の鬼が襲いかかります。この時子供達を守り、成仏への道を開いてくれるのが地蔵菩薩でした。地蔵菩薩は弱い立場の人々をまず救済する菩薩であることから、古くから庶民にとって有難い仏さまでした。
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弘誓院の地蔵菩薩には、次のような伝説があります。「この延命地蔵菩薩は子どもが好きで、夜な夜な各家を回り、泣く子をあやし弱い子には活力を与えて廻った。寺の普請には大きな柄杓を担いで檀家を廻り、知らぬ間に必要な資材が境内に積まれていた。」伝教大師作と伝えられ、本堂に向って右手のお堂に祀られています。
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3)-3【銀杏樹】
境内には銀杏の大木2本が繁っており、見事な乳柱が垂れ下がっています。妊娠した母親は地蔵菩薩に乳の出を願い、乳柱の先端を削って煎じて飲んだのです。栄養状態が十分ではなく衛生環境が悪かった頃、母親のお乳は赤ん坊の生死にかかわる問題でもあり、この信仰は東北から九州まで見られます。
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宗派・名称 真言宗豊山派 蓬莱山弘誓院福満寺
本尊 聖観世音菩薩
住所 柏市柳戸613
TEL 04-7191-2268
交通アクセス 柏駅東口から東武バス「手賀の丘公園・布瀬」行き「柳戸」下車、徒歩5分
参考文献
『沼南町史(一)』・『沼南風土記』・『沼南風土記(二)』
『柏市史(古代中世 文献資料)』・『柏市史(沼南町史史料集金石文Ⅲ)』
『柏市史(沼南町史 近代史料)』