大津川中流の史跡を訪ねる 高柳~塚崎~藤心

髙野
タカノ
博夫
ヒロオ
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 手賀沼に流れ込む大津川・大堀川・金山落し・染井入り落しなどは、下総台地を削りながら、川沿いに豊かな谷津を形づくっていきました。人々が水利を活かして水田を拓き、早くから村を成立させていったことは、中世の相馬文書などでも確認できます。なかでも鎌ヶ谷の粟野入道池を発する大津川は、かつては大川と呼ばれ、ゆったりと蛇行しながら村々を潤してきました。付近には神明社など、由緒ある社寺をみることができます。今回の歴史散歩は、カタクリの花を愛でながら、意外な史跡が残る、高柳・塚崎・藤心・逆井などの大津川中流域を訪ねます。

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10:00

大津川中流の歴史めぐりスタート☆

こんにちは!
柏の歴史アンバサダー髙野です☆
同行させていただく、ハラデテル・イナバです☆今日も元気です!!!どうぞよろしくお願いいたします。
今回は、大津川中流域の、~高柳~塚崎~藤心~の歴史スポットを巡っていきま~す☆
東武アーバンパークライン・高柳駅西口からスタートします☆

高柳駅~高柳新田富士塚へ

徒歩 9分

距離 750m

セブンイレブンのある交差点から、住宅街に入るとすぐ高柳新田の富士塚があります。
えっつ!?びっくり!住宅街に小山が!富士塚、はじめて見ました!

高柳・冨士塚
 
秀麗な山容をもつ富士山は、原始時代にはすでに霊山として崇められていたようで、室町時代には参詣の登山が確立したといわれています。江戸時代に入ると、富士山に登ると災難から免れられると固く信じられるようになり、登拜が民衆の間に広がっていきました。山容を模した富士塚も各地に築かれ、富士信仰はますます盛んになっていきます。高柳の富士塚は文政12年(1829)、富士講の一派である「丸不二」の講中によって築かれたもので、「御嶽石尊大権現」・「仙元大菩薩」・燈籠などの石造物が3点建てられています。

住所:柏市高柳1633

富士山登頂(*'▽')
富士塚頂上部に祀られた石碑
古くから富士山は、山岳宗教の対象で聖地でした。江戸時代、庶民は気軽に旅行や登山は出来ませんから、富士山に見立てた富士塚を、各地に建立したのでしょう。

富士塚に登って霊峰のパワーをチャージできるとは!ありがたいです☆
富士塚のすぐ近くに、庚申塔が並んでいます。

一番左の庚申塔の後ろの看板に「慶応2年(1866年)」とあります。

中世の時代には、大津川の水利をいかし、人々は水田を拓いて、村ができました。
付近には、幕府の軍馬を放牧している牧がありましたが、江戸時代の人口増加を受け、田・畑を開墾する「新田開発」が行われていたのです。

【高柳新田】の「新田」は、江戸幕府が行った新田開発の名残の地名だったのですね(*'▽')!
そうです!旧沼南町には「高柳新田」と「藤ヶ谷新田」が地名として残っていますよ。
さて、次は柏市文化財にも指定されている福寿院へ向かいましょう! 少し歩きます。
はい!大丈夫です!

高柳新田富士塚~福寿院

徒歩 17分

距離 1.4km

《 ちょっとオマケ 》

高柳周辺はゴルフ場のメッカだった
 大正13年、高柳から松戸市六実付近に武蔵野ゴルフ倶楽部六実ゴルフ場がオープンしました。これを手始めに、大正末から昭和初期にかけて同ゴルフ俱楽部の藤ヶ谷ゴルフ場、柏ゴルフ場、我孫子ゴルフ場などが次々と開設し、柏一帯は一大ゴルフ地帯となっていきました。なかでも武蔵野ゴルフ倶楽部藤ヶ谷ゴルフ場は、日本を代表するゴルフ場となり、毎年のように大きな大会が開催されるようになりました。きっかけを作ったのは、杉村楚人冠です。初めのうちは北総鉄道で、ゴルフ場に通っていましたが、やがて専用の別荘を建てます。現存する「晩花林」です。 

晩花林(杉村楚人冠別荘跡)
 
この建物は杉村楚人冠が、まだ一般的ではなかったゴルフをするために建てた別荘です。楚人冠は朝日新聞の記者として、新聞の近代化に貢献した人物で、我孫子に居を構え、手賀沼周辺を取材した「湖畔吟」を『アサヒグラフ』に掲載し、その魅力を発信していきました。ゴルフに熱中し武蔵野カントリークラブ六実コースに通うためにこの「晩花林(ばんかりん)」を建てます。名称は「バンカー・イン」からしゃれて付けたもので、「一度入ったら、ちょっと出にくかろう、というものだ」と楚人冠自身は書いています。住宅に囲まれた今日とは違い、人里離れた山の中の一軒家で、一人で泊まるには心細い場所でした。
杉村楚人冠山荘(写真:柏市教育委員会文化課)
我孫子市にある「杉村楚人冠記念館」HPはコチラ

2
11:00

大津川のほとりを高柳から塚崎へ

福寿院
 大津川のほとり、重厚な萱葺屋根の観音堂で知られる、真言宗豊山派の寺院です。本尊十一面観音は童顔で瞑目し、彫りが深く精巧で、中世の作とされますが、通常は秘仏のため拝観はできません。かつて福寿院は、地区の鎮守である香取神社の別当職を務めており、特定の檀家を持たず氏子によって維持されてきました。境内には元禄2年(1689)の十九夜塔をはじめ、比較的豊富な石造物が立ち並びます。明治40年(1907)の筆子塔も見られ、正面には「補教試補 渡来高盛 不生位」とあり、台石には近隣の教え子51人の名前が刻まれています。

住所 柏市高柳1366
TEL  04-7191-7414

福寿院十一面観音(写真:柏市教育委員会文化課)
素晴らしい観音像ですね。柏の歴史を勉強し始めたのに、仏像にもはまりそうです(笑)
茅葺屋根も素晴らしいですね!
春には桜が、秋には紅葉が咲いて茅葺屋根といっしょに楽しめますよ。
「東葛印旛大師」の札所となっている大師堂がありますね。以前kamonで東葛印旛大師について取材した記事があります。よろしければご覧ください!

東葛印旛大師についての記事はコチラ
ドイツ人留学生マルテの『つながるまち歩き』1:東葛印旛大師

福寿院~善龍寺/徳本上人塔・永木屋

時間 9分

距離 750m


高柳村には、こんな人もいました【義僧 了慧和尚(りょうえおしょう)】
「7月5日四つ時 (午前10時)、印鑑を持って善龍寺に集まること」。天明5年6月13日、柏近辺の68か村の名主に緊急の檄文が飛ばされました。この頃、全国では洪水・台風・地震・噴火・旱魃などの自然災害が多発し、凶作が続いていました。これに追い打ちをかけて農民たちを苦しめていたのが、猪や鹿による作物の食い荒らしでした。中相馬郡の村々はこの頃、水戸藩の鷹場に指定されており、害獣の駆除もままならない状況だったのです。人々の惨状に心を痛めた善龍寺の了慧和尚は、百姓たちが団結して、水戸藩の家老中山備前守に訴え出ようと企てたのでした。しかし農民たちの集団行動である徒党(ととう)は、逃散(ちょうさん)・強訴(ごうそ)とともに幕府が厳しく禁止してきた行為であり、その先頭に立つことはとても危険な行動でした。はたして了慧和尚は捕縛の上、入牢させられてしまいます。農民たちは何とか和尚を助け出そうと、寛政5年(1793)6月高柳村の友右衛門らが惣代となって村人48人が赦免願を奉行所に提出しました。その後の経緯は不明な点が多いのですが、出獄後の寛政11年、和尚は静かにこの世を去っています。しかし、彼の意志は消えることなく、農民たちによる鷹場などの負担軽減運動となって、引き継がれていきました。了慧和尚は、大津川を見下ろす善龍寺の墓地に眠っています。
※高柳・善龍寺は一般公開されておりません。

こちらの記事もご参考に
生涯学習部文化課の「続・柏に輝いた人たち(web拡大版)」
了慧(りょうえ)和尚 ~飢饉に苦しむ農民たちのために立ち上がった義僧~

高柳・善龍寺は一般公開されておりません。境内には入れませんのでご注意くださいね。
では、次の神明社へ向かう道中に、歴史を感じるスポットがありますので、ご案内しましょう!

徳本上人塔
永木屋旅館(写真:柏市教育委員会文化課)
行き交う人々に重宝されていたのが旅人宿「永木屋」で、当時の雰囲気を伝える写真が残されています。
徳本上人塔・永木屋
 
善龍寺から神明社へ向かう県道沿いの三角地を、地元では「徳本」と呼んでいます。浄土宗の高僧、徳本上人の念仏名号塔が、ここに建っていることによります。徳本上人は日本中を巡錫して教化につとめ、民衆から絶大な信仰を得たため、各地に説話が残り、特異な筆跡を刻んだ名号碑が建てられました。近辺では泉地区や鷲野谷地区にもみられます。高柳の徳本塔は文化15年(1818)、万民豊樂・五穀成就を願って周辺の村人たちによって造立されました。そのほか光明真言塔や弘法大師供養塔などが建っていますが、この中にすこし変わった石塔があるので紹介しましょう。高さ35センチほどの自然の丸石で、「西孝心橋」と刻まれている外には、年号や造立者名などはみられません。この石は冨士講の一派、「不二道孝心講」によるものです。講社の活動理念は「親に孝、世間に報恩」とし、社会奉仕運動を進めることで、とくに道路・堤防・橋などの土木工事に力を注ぎました。大津川の架橋を行った時に、橋のたもとに置かれていたものを、後年、この場所に移したものでしょう。

住所 柏市塚崎1462−2

ここは、北は大井を経て我孫子、東は泉・手賀を経て印西、南は松戸を経て東京、西は柏方面に向かう十字路にあたっていました。
まわりは、水田が広がっていてのどかな風景ですが、交通量が結構ありますね。
散策の際はお気をつけくださいね。

徳本上人塔・永木屋~神明社

時間 11分

距離 800m

3
11:30

地域の人々に親しまれている「明神様と沼南の森」へ

神明社(しんめいしゃ)・沼南の森(しょうなんのもり)
 旧沼南地域を代表する名社で、大神宮・八幡社・春日社の三社を祀っています。社殿は伊勢神宮の方向に向かっており、かつてこの地に置かれた相馬御厨(そうまみくりや)との関連を示す説も有力です。天正19年(1591)徳川幕府から朱印地10石を受け、領主田中本多氏も鳥居を寄進するなど、人々の信仰を集めた神社でした。境内の森は昭和52年、旧沼南町の「町民の森」として整備され、現在では「沼南の森」として、人々に親しまれています。

柏市塚崎1460
TEL 04-7138-6436
受付時間 9:00~16:00

本多氏奉納の鳥居
本多氏奉納の鳥居2
神明社の拝殿
神明社の本殿
神明社の榊
近くに沼南の森があるからか、神明社の境内に入った途端、気温が下がったように感じます。涼やかな風が吹いています。
今回は簡単に、境内の風景を見ていただきました。神明社について、まだまだお伝えしたい事がたくさんありますので、次回の「こだわり・柏の社寺」第三回で特集します。お楽しみに!

神明社の裏には、沼南の森があり、地域の人々の憩いの場所となっています。
では次は、お代官様が常駐していた「藤心陣屋跡」へ向かいま~す。

神明社~藤心陣屋跡/慈本寺/休憩(*'▽')

時間 7分

距離 550m

4
12:00

大津川沿いを塚崎から藤心へ~今は畑のど真ん中・藤心陣屋跡へ~

藤心陣屋跡
 
下総に一万石の飛領地をもつ大名、田中本多氏が、陣屋を置いたのが船戸と藤心です。田中本多氏の始祖正重は、徳川家康の側近として活躍した本多正信の弟で、元和2年(1616)下総国相馬郡に領地を加増され、1万石の大名となりました。その後歴代藩主は各地を移封、加増されながら最終的には駿河国田中藩(静岡県藤枝市)の領主となります。とくに4代正永は4万石を領し、老中に昇進するなど、本多氏は譜代大名として徳川幕府を支えました。他に領地を得た段階で、下総領は返さなければならないのですが、ここは父祖からの土地であると願い出、飛領地として残されたのです。藤心陣屋の敷地面積は2反以上あり、代官が常駐し、周辺の有力な農民を手代として雇いました。代官の仕事は年貢の徴収、幕府・藩などからの触書の伝達、訴訟の受付など、多岐にわたっていました。

住所 柏市藤心288

藤心陣屋(お代官様が常駐した場所)が舞台となっている「柏のむかしばなし」の「とったり庄兵衛」は、柏市観光協会HPで紹介されています!
当時の雰囲気が伝わって来ますよ!ぜひご覧ください!
すぐ近くの慈本寺に、藤心陣屋に常駐していたお代官様のお墓がありますので、行ってみましょう!
慈本寺の参道
慈本寺
 
藤心山延命院と号する曹洞宗の寺院です。本尊は延命地蔵菩薩で、本堂には薬師如来・観音菩薩・大権修理菩薩・達磨大師・永平開山尊像・当山開山尊像などが祀られています。文明12年(1480)の開創と伝えられ、境内には藤心代官、鈴木忠五右衛門や倉品弥平吾らの墓塔が建てられています。

住所 柏市藤心226
TEL 04-7172-3530
慈本寺HP https://www.jihonji.net/

慈本寺本堂前の羅漢たち
慈本寺の藤心代官の墓
慈本寺の藤心代官の墓2
慈本寺の藤心代官の墓3
撮影中の髙野さん
さて、朝から歩いてきましたので、ここで少し休憩にはいりましょうか。
すぐ近くに素敵なcafeがあります!行ってみたかったんです!

慈本寺~アンチーブ

時間 10分

距離 800m

髙野さん曰く「定食がなかなかのオススメですよ!」とのことです。お昼の時間帯に訪れた方は是非! ※今回はスケジュールの関係でランチライムでしたが、断念しました。

住所 柏市藤心389-1-2
TEL 04-7175-3960

天井が高くてゆったりと過ごせそうな店内です。
一息つく間に、前回取材に行った原稿を髙野さんへ。先にアイスコーヒーを飲もうとしているイナバ(笑)
さて、大津川沿いを藤心から逆井へ向かいます。途中にカタクリの群生地がありますが行ってみますか?
カタクリは柏市の花ですね!見頃になると、道案内の問い合わせがありますので、ぜひ行ってみたいです!

アンチーブ~カタクリ群生地

時間 13分

距離 1km

逆井運動場の駐車場が目印
運動場を背にして、道を渡ります。左手のフェンスの中がカタクリの群生地です。
見頃の時期は、混雑が予想されます。
撮影 2021年・春
カタクリ群生地は道沿いに、100mほど続きます。

住所 柏市逆井716,719

カタクリ群生地~観音寺

時間 18分

距離 1.4km

5
14:00

広大な境内に、四季折々の花たちが咲き誇るお寺へ

観音寺
 安楽山誓光山と号する真言宗豊山派の寺院で、本尊は不動明王と十一面観音菩薩です。『土村誌』によれば、文禄年間(1592~95)に火災に遭い、堂宇・古文書などを焼失、その後寛保2年に本堂を再建したと記されています。 
本堂を仰ぐ木立の中に歌人、館山一子の歌碑が建てられています。一子は明治29年(1896)、土村(柏市)逆井に生まれ、若いころから短歌に情熱を持ち,大正9年窪田空穂に師事しました。歌誌『黎明』の創刊や出版活動をすすめ、合同歌集『新風十人』にも名を連ねるなど、歌壇に新風を吹き込みます。戦後はふるさと逆井に、郷土短歌会を起ち上げて『郷土』を創刊編集,門下生の指導育成に努め,短歌を通して女性の地位向上や、柏の文化振興に半生を捧げました。碑に刻まれている短歌は、次の通りです。

国境を はるかに越えて 迫りくる 波あり春の 岸辺を洗う

住所 柏市逆井523
TEL 04-7173-5256

館山一子の歌碑
以前、「まち旅かしわ☆柏ぶらりん旅(2)」で観音寺さんへお伺いしたことがあります!
☆よかったら、ご覧ください☆
まち旅かしわ☆柏ぶらりん旅(2)


地元の方には「ぼたん寺」と呼ばれています。季節ごとに様々な植物が楽しめます。

さて、では逆井駅へと向かって今回の旅は終わりです。今日も結構歩きましたね。
歴史を感じられるスポットを巡りながら、秋のウォーキングコースにピッタリです☆
柏の歴史コース、まだまだご紹介しますよ!
「柏の歴史発見!」次回をお楽しみに~!
Goal !

この記事を書いた人

髙野
タカノ
博夫
ヒロオ
プロフィール

柏の古文書や石像をず~っと調べて40年。
柏の歴史って素晴らしいので、ぜひお知らせしたいと思っています。