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歴史

手賀沼のほとりに中世の佇まいを訪ねる 箕輪~岩井~鷲野谷【前半】

髙野
タカノ
博夫
ヒロオ
プロフィール詳細

 柏といえば、昭和48年の駅前再開発を期に、沿線随一の商業都市として栄えた、比較的歴史の浅いまちという印象が強いのですが、実は貝塚や古墳も出土しており、昔から人々が暮らしていた痕跡が見られます。このコーナーでは、kamon・柏の歴史アンバサダーの髙野博夫さんのご案内で、柏の歴史や各所で寺社仏閣の解説を聞きながら、昔から続く人々の暮らしを感じることができるスポットやコースをご紹介します。
 今回は、中世(武士が登場した鎌倉末期から戦国時代の終焉まで)手賀沼のほとり、箕輪・岩井・鷲野谷地区をめぐり、往時の人々がどのように暮らしていたのか感じられる歴史発見!の旅に出かけてみました。

<柏の歴史アンバサダー>髙野 博夫さん
<同行人>ほんま

からスタート
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道の駅しょうなん
からスタート!

Start
1
13:00

歴史の旅は、道の駅しょうなんから出発します。

【道の駅しょうなん】

地元の採れたて農産物を中心に特産品も販売している「道の駅しょうなん」。レストランでは新鮮な野菜が味わえるオリジナルメニューもあり、季節ごとのソフトクリームも人気です。レンタサイクルやトイレもあります。

住所 箕輪新田59-2
電話 04-7190-1131
営業時間 9:00-18:00

アクセス

道の駅しょうなん~中台家長屋門

徒歩 7分

距離 800m

柏民が愛する天然温泉、満天の湯を目にしながら左へ。
髙野さん:この先の緑の木々がこんもりしている辺りが箕輪地区です。

【箕輪村】
(中世相馬文書)相馬箕勾・ミのわ
元和6年(1620年)本多氏検地(85石)
正徳3年(1713年)幕府領(幕末まで)

髙野さん:水道がなかった時代、水をどう確保するかが大切なことでした。それにより人々が暮らせる場所が限られたからです。この辺りは、手賀沼と台地の間に谷津が入っており、谷津の奥に湧く水を利用し、田がつくられ稲作をしていました。そして、台地の上で畑を耕し生活していたようです。

※谷津とは…
手賀沼に入り込んだ小さな谷・小川、特に南側斜面は谷津が幾筋も発達していた。

※谷津田とは…
中世には谷津を利用して稲作が行われており、鷲野谷村などたくさんの村が作られた。村々の名前は中世相馬文書で確認することができる。

手賀沼から台地に上がって一つ目の信号を左に渡り・・・
渡りきったところを手賀沼の方へ戻る
下ったところを右手に
髙野さん:中台家のこの並木は紅葉(もみじ)です。秋は紅葉(こうよう)が素晴らしいですよ。
ほんま:木漏れ日がとても素敵ですね~。
【中台家長屋門(箕輪)】
解説:中台家は箕輪村の草わけとして,江戸時代には名主を務める。昭和期に活躍した中台正夫は風早町長から初代沼南町長を務めた人物。(名誉町民)。昭和39年に就航した県営渡船は,中台町長と我孫子町の秋谷町長の頭文字に因み「中秋丸」と命名された。
 長屋門は江戸時代の建築(かつては萱葺)で,向かって右手は4間×4間,裏1間吹き抜け。物置として使用。かつては養蚕の作業場としても使用していたという。向かって左手は5間×4間2尺。桁行中央で2室にわかれる。
中央よりは畳敷き(イロリ)で,一時門番が住んでいた。2階は畳敷きで床の間や窓があり,隠居部屋としても使われていた。土塁の前にカエデがあるが,かつてはサクラが植えてあったという。
住所 箕輪417

※長屋門とは…
江戸時代に多く建てられた、諸大名の武家屋敷門として発生した形式のこと。屋敷の周囲に家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて一棟としたのが長屋門のはじまり。のちに上級武士の屋敷の門として広く利用され、門の両側部分に門番などが置かれ、家臣や使用人の居所に利用された。

中台家長屋門~広瀬家長屋門

徒歩 3分

距離 210m

髙野さん:この辺りは中世からの集落で、攻め入られないように道が90度に折れています。
ほんま:どこも立派で素敵な生垣に囲まれていますね。
【広瀬家長屋門(箕輪)】
解説:広瀬家は箕輪村の草わけの農民であり,村内にある何軒かの一で,長屋門は江戸時代の建築。(かつては萱葺)向かって右手はマテヤ。農具収納の物置,作業部屋として使用。向かって左手はシングラ。かつては作物を収納。2階はワラを収納。昭和10年頃までは養蚕の作業場としても使用していたという。
住所 箕輪406

※マテヤとは…
農機具などを収納した建物

※シングラとは…
何棟かの倉庫のうち新しい物

広瀬家長屋門~如意寺

徒歩 2分

距離 160m

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13:30

如意寺へ

【如意寺(箕輪)】
解説:阿弥陀如来を本尊とする,真言宗豊山派の寺院。創建は大正末期の「寺院明細帳」によれば元和6年(1620)とあるが,箕輪には,小金大谷口城主高城氏ゆかりの「箕輪城」があり,如意寺の本寺もかつては,小金の大勝院であった。大勝院は根木内城の祈願寺として光ヶ丘付近にあったが,大谷口城の築城とともに移動,高城氏の祈願寺として隆盛したことから,如意寺の創建も中世以前にまで遡ると考えられている。寺は明治20年(1887)の火災のよって全焼,現在の本堂は3年後の明治23年に再建されたもの。境内には延宝6年(1678)からの十九夜塔が並ぶ。
住所 箕輪62
髙野さん:真言宗豊山派の寺院として松戸の大勝院の末寺に配せられた寺です。
東葛印旛大師霊場順拝場所としても人々に親しまれています。

如意寺~かわうその碑

徒歩 7分 

距離 500m

【カワウソの碑(箕輪)】
(文化14年・1817)
解説:カワウソを祀った珍しい石碑で,正面に「祭獺之制底」と刻まれている。制底は霊祠の意味。道標を兼ねる。
住所 箕輪260

髙野さん:箕輪地区の邑施主の広瀬家の二男が、手賀沼で捕まえたカワウソを殺したことが原因で亡くなったとされ、カワウソを葬ったところに供養塔を建てたといわれています。徳川吉宗の時代の文献に、この辺りには狼もいたとされています。自然豊かな場所だったのでしょう。

かわうその碑~湖南霊園前T字路石塔群

徒歩 14分

距離 1.1km

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14:10

箕輪から岩井へ

【湖南霊園前T字路石塔群(箕輪と岩井の境界)】
解説:このT字路の先は、我孫子へ向かう岩井渡船場に向かう道で、数基の石塔がたっている。宝永2年(1705)と寛政5年(1793)の庚申塔が目につくが、文久2年(1862)の「太子宮」は聖徳太子を祀って地元の職人たちが造立したもの。他の2基は道標である。
住所 岩井379
髙野さん:石塔群の中に庚申塔が2つありますが、どちらが古いか見分け方があります。
庚申塔の下部のレリーフの猿。
一方は三猿とも正面を向いています。
もう一方は三匹のうち左の一匹が中央を向いています。
髙野さん:庚申塔が建てられた当初、猿が正面を向いたものばかりでした。後の時代になるにつれ猿にアレンジが入り、色々な向きに彫刻されました。庚申塔は、ここから悪いものが入ってこないようにと、村との境に建てられています。
岩井村と彫られています。

髙野さん:庚申塔とは江戸時代の民間信仰が流行して建てられるようになりました。中国から伝わったものです。60日に一度巡ってくる庚申の日に、夜眠ると人の体内に住んでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日頃の行いを報告するという道教の教えがあり、罪によって寿命が短くされてしまうと言われていました。寿命が縮まっては大変と、その日は虫が抜け出せないようにと集まって徹夜して過ごしたそうです。

江戸時代の人々は集まり禁止、旅行禁止、贅沢禁止など押さえつけられた生活を強いられていました。ガス抜きのためか、信仰のための集いや行事は許されており、徐々に皆で飲食したり情報交換の場としての風習になっていきました。

ほんま:集まりや旅行が禁止されていたなんて、今の状況とよく似ていますね。
江戸時代、日光やお伊勢参りが庶民の憧れだったのは、自由に旅行に行けなかったからなのですね。

髙野さん:お参りが目的ならば、最短距離で行って帰ってくれば良いのに、わざわざ遠回りして巡って行くのですから、レジャーとしての楽しみだったのでしょうね。

湖南霊園前T字路石塔群~鷲野谷へ

徒歩 16分

距離 1.3km

「ちょっと小耳を」
【善鬼塚(岩井)】
解説:手賀の杜の住宅地が整然と建ち並ぶこの一帯は、かつて道堀原と呼ばれる原っぱが広がっていた。この一角にあった「デンキ塚」と呼ばれた塚にまつわる話。戦国時代末期、伊藤一刀斎の高弟、御子神典膳と小野善鬼が一刀流の印可をめぐって決闘。勝利した御子神典膳は兄弟子善鬼を懇ろに弔い、小野姓を受け継ぎ小野次郎右衛門忠明と名乗り、徳川秀忠の指南役になったという。講談などで知られたこの話の、決闘の場所はどこか。「下総の国小金原」とだけで、特定はされなかったが、岩井の「デンキ塚」こそ、小野善鬼を葬った跡ではなかったのか。剣豪小説で知られた柴田錬三郎などが、ここを訪れ、地元が大いに盛り上がったという。夢のあるお話。
4
14:30

岩井から鷲野谷へ

【鷲野谷村】
解説:鷲野谷の村名の初出は「斯波家長奉書(相馬文書)」である。南朝方の所領であった村々が、北朝方の相馬孫次郎親胤に供与(家長は足利尊氏の重臣)されたもの。親胤の親、重胤は奥州相馬氏の祖とされ、建武3年(1336)鎌倉の戦いで、北畠顕家と戦い討死しており,鷲野谷村はその恩賞と考えられる。また,『本土時過去帳』には,「延徳5年(1493)「飯野尾左ヱ門太郎 鷲野谷にて討ち死に」との記事もみられる。
元和6年(1620)本多氏検地(147石)
正徳3年(1713)幕府領
元文5年(1740)関宿藩領(幕末まで)

髙野さん:この台地の上から見て、建物の壁が見えない建物が古くからある住宅です。台地の谷は水が集まりやすく手に入る場所なので、人々が生活するのに適しています。それから、昔の木造の家は、風が直撃すると壊れてしまいますから、風が当たらない谷合に集落ができました。今は水道がありますし、風が吹いても大丈夫な家が建てられますので、高台にも家が建てられるようになりました。

ほんま:台地の下に降りてきたら、急に風が止みましたね。なるほど、おだやかな空気になりました。
さて、鷲野谷地区へ入りましょう。
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14:40

善龍寺と医王寺

【善龍寺(鷲野谷)】
解説:室町時代に創建された真言宗の寺院。『東葛飾郡誌』は星神社付近に相馬氏ゆかりの鷲野谷の本城があったと推定している。善龍寺もここが創建場所とされ,『寺院明細帳』には妙見堂も記載されている。
住所 鷲野谷568

善龍寺~医王寺

徒歩 3分

距離 240m

では、弁栄上人ゆかりの医王寺へ。
【医王寺(鷲野谷) 本堂】
解説:高僧・弁栄上人の墓や近郷の信仰を集めた薬師如来像(秘仏)が伝わる浄土宗の寺院。室町期の寛正2年(1461),経誉愚底上人が再興し,阿弥陀如来を本尊とする。経誉上人の墓塔は宝暦6年(1756)に造立された。
薬師三尊・毘沙門天・不動明王は平安時代末から鎌倉時代の初めにかけての作とされる仏たち。
 山崎弁栄上人(安政6年・1859~大正9年・1920)は大正の法然上人と称された浄土宗の高僧。本堂左手の釈迦碑は,明治27年(1894)上人のインド訪問を記念して,明治中期に造立したもの。
明治12年,医王寺に出来たばかりの鷲野谷学校に赴任,教育の重要性を訴えた石川倉次(安政6年・1859~昭和19年・1944)は,明治23年,日本点字を完成させ,「日本点字の父」と呼ばれる。
 境内には力石(ちからいし)を置かれている。力試しに用いられる大きな石で,江戸時代から明治時代まで力石を用いた力試しが盛んに行われた。( 1貫は3.75kg)
住所 鷲野谷510
電話 7191-2259
お伺いしたのは4月末頃です。
本堂からお隣の薬師堂へ。
髙野さん:平安時代末期に作られた仏様が祭られています。医王寺については、次回の寺社仏閣コーナーでご紹介したいと思います。
ほんま:楽しみです!
薬師堂の左から裏へ
参拝された方が奉納したキリが

医王寺~医王寺薬師堂先Y字路石塔群

徒歩 1分

距離 90m

【医王寺薬師堂先Y字路石塔群(鷲野谷)】
解説:この石塔群は,旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された塔で,十九夜講のほとんどは女人講、念仏講である。子安講といい、安産を祈願することもある。「十九夜塔」「十九夜念仏供養」などと刻まれた文字塔と如意輪観音の刻像塔があり、山形、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉などに分布する。古いものは,念仏塔(寛文13年・1673)と十九夜塔(延宝5年・1677)など。
住所 鷲野谷198

※十九夜塔とは…
月待信仰のうち、19日の夜に女性たちが集まって安産などを祈願したものが十九夜講で、これを記念して造立した石塔。

医王寺薬師堂先Y字路石塔群~わしのや農業交流拠点

徒歩 1分

距離 90m

ちょっと一息
【わしのや農業交流拠点(鷲野谷)】
ちょっと休憩に最適。きれいなテーブルやイス。トイレも清潔。
住所 鷲野谷199
後半へつづく

わしのや農業交流拠点~染谷家長屋門

徒歩 2分

距離 200m

後半へつづく

Goal !

この記事を書いた人

ヒミツ

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博夫
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プロフィール
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同行人

札幌出身のほんまです!
柏在住は通算15年ほど。
息子3人のご飯作りに追われる毎日です。
趣味はお菓子作り。最近はまっているのは台湾カステラ~
愛猫のつぐみが日々の癒しです。